楽笑座は元々は「酒蔵」

楽笑座酒蔵の歴史 田邉酒造の沿革(第十四代田邉 卓氏の話から)
平成18年6月6日 

江戸初期からの庄原の酒造り

 

 萬治元年(1658)庄原桟敷屋(板倉家)で作った覚書には庄原9軒、赤川3軒の酒屋があったことが記されている。山之内方面においては、市村八谷家に残されている元禄12年頃(1699年)の酒運上御触書の中に6軒の酒屋があったことがわかる。

田邉酒造の沿革

こうした中、三代目・田邉七兵衛は、享保7年峰村(現在の庄原市峯田町)の津田屋から酒造株を購入し、享保8年(1723)に庄原村(現在の広島県庄原市西本町二丁目1-10)で酒造業を始めた。


 田邉家は文化文政(1804-1830)の頃には八重霞という銘柄酒を造っていた。文化文政の頃には庄原村では田邉、森田、伊藤、本板倉、上板倉、新板倉、三上の七家が酒つくりをしていた。田邉家は明治になっても酒造の免許を得て白濤という銘柄酒を5百石醸造した。
 昭和45年(1970)免許を返上し、ほぼ260年間の酒つくりを中止した。

 酒造株(酒株)についてみてみよう。

 幕府の制定した酒造株はさまざまな種類があるが、明暦3年(1657)に初めて制定されたとされる酒造株は、酒造人を指定してその営業権を保障するとともに、酒造で消費する米の量の上限(酒造株高)を定めた。酒造人に交付される鑑札は将棋の駒形の木製札で、表に酒造人名、住所、酒造株高何石、裏には「御勘定所」と書かれ、焼印が押してある。

酒造株は同一国内であれば、譲渡あるいは貸借も可能で、酒屋が経営不振に陥ったり、相続人がない場合、近隣の有力酒屋が酒造株を買い集めて規模を一層拡大させる例がしばしば見受けられた。酒造場権利を他に移すことには、仲間は勿論双方、それに町役人共が、随分入念に手数をかけている。

↑【享保7年の赤川町津田屋から庄原町胡物屋七兵衛への酒造株売買の証文

 

 

 

 

庄原町においても、古くは桟敷屋文書【宝永年間(16881709年間】に酒造株の売買の記録が残されている。

 天野屋(伊藤家)古文書 天保三年(1832)三上郡酒造株御改帳にも胡物屋(田邉家)への酒造場の売買の記載がみられる。

庄原町桟敷惣左衛門より赤川町津田屋惣兵衛へ売却、その子、又四郎が受け継ぎ、享保7(1723)庄原町胡物屋七兵衛へ売却

 

天和元年(1681)  造り高 二石六斗二升五合

 

天明五年(1785年) 造り高 二百石

 

(天和の頃11軒によって7226升の造石が、それが天明5年には一挙に1740石と、実に24倍になっている)

 

 

 

享保8年の酒の売上高台帳(つくり高帳)や天保の酒造株(酒造人に交付される鑑札、将棋の駒形をしている)で当時田邉家の酒造石高が推測される。

 

↑【享保8年からの酒の売上高台帳(つくり高帳) このページは享保9年】

↑【天保13年の酒造株(酒造人に交付される鑑札)写真の酒造株に七兵衛の名を認める】

 

 

田邉家が初代より庄屋であったかどうかは、1682年庄原村の大火で母屋を焼失した為、記録は残っていないので不明である。五代目は庄屋であったことが判っており、余剰の米に付加価値をつけるために酒つくりを始めたと思われる。
 元禄七年(1694年)の桟敷屋文書には米百石用いた酒造りに、銀4450目の費用がかかり、酒の売り上げなどで銀六貫八百拾匁の利潤が記載されている。(利潤には運上金も含まれる)

 

 杜氏は当初は三原の川口屋からきていたが、後には備中(岡山県)から杜氏、代師、麹師又は衛門(製麹の主任)、?廻りの三役が来るようになった。

 

酒の造り方について

 

 ここで『江戸の酒』を参考に酒のつくり方を見てみよう

     精米

     洗米、浸漬

     蒸し

     麹つくり(麹室(保温室)(もみがら)でつくる)

     ?(もと)酵母の大量培養

     醪(もろみ)づくり 麹の酵素による米でんぷんの糖化、酵母によるアルコール発酵が同時に進行し、しだいに米から酒ができる。寒づくりの場合摂氏15℃以下の低温発酵ながら,粘度の高い濃厚な「もろみ」となり、アルコール濃度も18度と高い。アルコール発酵の進み具合はもろみの香りや、粘り気、嘗めてみての甘、辛、苦い、酸味のバランス,泡立ち具合などで判断した。「筋泡」「水泡」「岩泡」「落泡」「玉泡」「地」

     上槽又は槽掛(ふながけ) 柿渋で染めた木綿袋に醪を入れ、酒槽(長方形の箱)の中に積み圧縮機で搾る。

     滓(おり)引き

     火入れと貯蔵

 

田邉家では【雄町】を酒作り米として用いた(明治末頃より)。この米はでんぷんが多く酒造りに適しているが、粒が大きく重いので稲作時倒れやすく作るのは難しい。米で売るより商品価値をつけて売りたいために酒にするとう発想で、【雄町】を自家で作った。酒代の殆どは米代金であり、人件費は少額であった。

米の精白は大変な作業であったため、水車のない以前は玄米で酒を造っていた。玄米で造る酒の味は良くなかった。江戸の後期には西城川の側溝に水車小屋をつくり、米をそこまで運び精米していた(水車鑑札)。水車が出来て大変助かった。

↑【水車鑑札】

 

 

田邉家敷地内に井戸は多数あったが、現在は二箇所に残っているだけである。しかし、水の鉄分が多く酒造り用の水には適さなかった。水に鉄分があると色が変わり、味も落ち、酒は劣化もする。紅梅町名月の横の板倉さんの井戸の水をもらって酒造り用の水として使用していた。

 

石高の少なかった頃は麹室、?場(酵母を培養するところ)、仕込み場の3つがひとつの蔵にあり、甕の中へ麹と?とを入れて酒を造った。室が3日、?が7日、仕込みが20~30日で2ヵ月くらいで酒は出来た。それを毎日繰り返していく。石高が増えると酒蔵の数も3つに増えた。最初蒸したものを麹(麹場)にし、それを?場で仕込む。1~2週間水を入れて酒にしていく。11月~3月末の期間(今の暦)1日差で繰り返し作っていった。酒蔵の管理は重要である。蔵に悪いカビが一度生じると、カビの駆除は困難で、次の年も影響が出て酒は腐り、売り物にならなくなる。こうした酒造屋は潰れていき、杜氏も責任を感じて自殺するといったこともあったようだ。

圧搾は昔は石掛式(槓杆式)で締木に重石をぶらさげて搾っていたが、それが螺旋式になり、さらに油圧式になった。

 

↑【明治13年(1880年明治政府の酒造免許鑑札

参考図書
   『江戸の酒』
  
『郷土の誇り 比婆美人』 比婆美人酒造株式会社 
               平和印刷株式会社