酒蔵建設から楽笑座完成まで

 

酒蔵の建築年代

 最初、享保蔵(入口奥側)が建てられ後に、天明蔵(入口側)が建て増しされた。 享保8年(1723)より酒の売買記録があり、享保蔵の創建はこれの1-2年前と考えられる。 天明蔵は蔵の2階の野地板の墨書に天明7年(1787)9月21日の記載があり。このとき建て増しされたと判断される。

【享保8年の酒の造石高と売買記録】



 自然木の曲線をそのまま活かした巨木の梁や柱の骨組が最大のみどころであるが、当時の土壁、なまこ壁も天明蔵の西、北面に残存し歴史を感じさせる。

 

【自然木の曲線をそのまま生かした梁】



 いずれの蔵も二階建てになっており、二階部分は質蔵として利用されていた。享保蔵、天明蔵いずれも酒の仕込み蔵で、享保蔵の天井は低く、天明蔵のそれは高い。その理由は享保の頃は10石樽(一石は180L)で酒を造っていたが、文化が進み、酒の需要も多くなり、天明の頃には16石前後の大きな木樽が開発され、高い天井が必要となった。

 木樽は昭和10年前後より徐々に金属製に変わりホーロータンクが主流になった。終戦までは一蔵千石までと決まっていた。この蔵では5百石造った。樽には杉材を用いた。杉は正目がよく匂いがよい。耐水用に柿渋を塗っている。杉は断熱材としても良かった。

 蔵の温度(10-15度が酒を造るのに適す)を保つには土蔵が適していた。蔵の温度は発酵熱で保てたが、寒いときは樽の下に筵を巻き適温を保っていた。時には台の上に樽を置き、下から炭火で保温した。樽を作った年代は幕末で、製作者も判っている。

 現在、のんき工房清水氏の手で、保存されていた大樽のふたや底は楽笑座のテーブルに、小樽はイスになっている。

 天明蔵のコンクリート性の堅牢な構造物は、もろみを搾る酒槽(さかぶね)である。昔は木製の槽に酒袋に入れたもろみを重石で搾っていたが、これが出来てジャッキで搾るようになり職人は重労働より解放された。

 天井にある竹は祭の時に幟を立てるのに使った。

 
【左:酒槽、天井:棹竹】



 この続きに中間の古さの蔵がもう一つあった。雨漏りなどで置き屋根の土から柱に水がしみて、柱が腐り、倒壊した。麹室として使っていた。



 蔵の向きは東西に長く造ってある。酒蔵を冷やさないといけないときは北の窓を開け勝光おろしを入れていた。精米所は西にあったら、粉が風で飛んで蔵の中に入ってしまうから、一番東に造った。当時は建物の配置は風水の人が図面を引いた。風呂場は火事の問題があり、厠と風呂場は離して作った。

 
【風水を取り入れた弘化2年(1845年の田邉家の配置図】




田邉酒造酒蔵の特徴

 田邉酒造酒蔵は、梁間3.5~4間・桁行12間(享保蔵部分6間、天明蔵部分6間)の規模を持ち、2階造である。構造は土蔵造りで、耐火的建築物の構造である。酒造り用の大きな空間をとるため、各蔵空間には中央に大黒柱が一本あるのみである。中央の大黒柱の1辺は33cmである。建物が倒壊しないように、壁には柱が数多く入っている。柱の間隔は天明蔵が大体1m4cm、享保蔵は1m37cmである。柱には栗材、梁(ハリ)は松材を用いている。中央の丸いのは中引き梁で直径は45cm、おそらく30m近い大木だったと思われる。新庄の王子ヶ谷から伐採し運んだとの記録が残っている。蔵を建てた大工は地元の者で、建てる2年位前に山から木を伐採し、乾燥させ用いた。

 屋根は置屋根(おきやね)という構造で瓦葺きである。置屋根(屋根の勾配なりに天井を貼り、その裏に土壁を設け、その上に登り梁・束・母屋(もや)・垂木(たるき)・野地坂を設置して、瓦を葺いてある屋根形式)は防火性能、断熱性能に優れている。屋根部分はよそからの延焼で燃えても、蔵の中は土壁があるため燃えないようになっている。

 建物の床の仕上げはコンクリートのコテ仕上げである。元は【タタキ】(土と石灰とニガリを混ぜ、叩きつけた床)であったと思われる。

 壁は土壁の塗りである。一部は漆喰塗りで改修されている。ナマコ壁も部分的には残存している。瓦を張りつけ継ぎ目を【ナマコ】のように漆喰で塗っていたのと思われる。

 通路の壁(天明蔵)は当時のまま残り、ナマコ壁も残っている。ナマコ壁の黒い所は縦瓦という瓦を使っている。ナマコ壁のデザインは瓦の継目に土壁を挟み、それに麻の紐を所々だし、漆喰でかまぼこ形(なまこ形)にしてある。

 土壁の下地となる竹のことを【コマイ】というが、【コマイ】の竹は丸竹を使っている。竹を格子に組んでいる。通常は割った竹だが、この蔵では竹の節を貫き、砂を入れ、泥棒が侵入しようとし【コマイ】を鋸(のこ)で切ろうとしても砂が入っているため切れないようにしてある。大きな土塗りの土蔵扉も中に内扉(引き戸)が残っている。




田邉家建築群

■母屋
 昭和56年頃、広島県文化財保護審議委員の当時広島大学佐藤重夫氏と宮島の宮大工棟梁岡田定次郎氏が田邉家建築群を調査に来た。最も古い建物は母屋で延宝(1673-80)年の初期の建築であろうと指摘された。その後県教委の7氏が調査。昔は表が格子戸だったのを、現在は外しており、また三次フードセンターが来た時、境を造り、シャッターにした。この改築部分を格子戸に直せば国の重要文化財に指定される可能性があった。しかし、格子戸には出来ないし、境を取ると人に出入りされるし、プライバシーの問題もあり国の重要文化財の指定を見送った。(今でも改築すれば国の重要文化財に指定される)

 玄関前では薪を運んできた牛や馬をつないでおく事もできた。前は店舗とし酒を売っていた。こうした造りは白市の木原家と同じである。

 

■裏屋敷
 裏座敷の廊下の鴬張りをした大工は28歳の山田という記録がある。板の裏に金属をつけて、板と金属が摺れて鳴るらしい。巡検使(米の出来高はどうか、税金取れるかを調査する幕府の役人)が泊まっていた。巡検使を案内した地図は田園文化センターに展示してある。

 資料として江戸時代の庄原の昔の地詰帳(延宝3年1675年)、地坪帳(正徳3年1713年)とかあった。地ならしは正徳3何年に庄原の土地がものすごく増えている。山を開墾したのであろう。田邊家は幕末まで割庄屋をしていた。

 
【江戸時代の田邉家の設計図】



蔵の改修

■蔵の改修方針
 改修方法は建築家の笹木先生に指導を、広島大学の三浦先生に教示いただいた。歴史的な建物で、将来的に文化財として登録できるよう元の建物を出来るだけ壊さないという方針で種々の方法を採用した。

 

■屋根
 雨漏り箇所や、変形した瓦もあり、すべて新しい石州瓦した。瓦の下の【野地板】(瓦を乗せている板)、【垂木】は出来るだけ、腐食してないものについてはそのまま残した。虫の穴など開いた所や腐食した所は取り替えた。垂木を止めてあった【角釘】は新しい垂木を止めるのに再利用した。

 
【改修時の屋根 写真 長谷川木材店提供】



■軸組み
 腐食している部材については取り替えた。柱の柱脚部など部分1的に腐食した物については【根継ぎ】をして修復した。根継ぎは雇い継ぎとし、ステンレスのパイプを入れて継ぎ、元の部材より少し大きい(3mmくらい大きい部材。時間がたつと乾燥して小さくなるから)栗の部材を用いた。

 享保の蔵は壁の軸組みの腐食が著しかったため内側に新たに【軸組み】を立て補強した。

 
【骨接ぎ法での改修 写真 長谷川木材店提供】



■この工事で苦労した所
 古い蔵(享保蔵)の方の大黒柱は敷石(地面に敷石を置き大黒柱を支える)と共に50cmくらい沈下していた。敷石は地面に隠れて見えなかった。梁下にジャッキを掛けて上げ、大黒柱はそのまま残して、高さ調節のため埋没した敷石と柱の間に新しい石を入れた。

【奥の大黒柱が地面に50cmめり込んでいた 写真 長谷川木材店提供 】

 

 

 

【腐食したためにゆがんだ建物 写真 長谷川木材店提供】



 昔は【メンヤ】(家屋の解体や家を引っ張ったりする業者)がいたが、今はいないので非常に苦労した。橋の桁の設置等で使う強力なジャッキを使い、享保蔵の沈下した部分を仮設の補強材を入れて持ち上げた。

【ジャッキで持ち上げるための補強材 写真 長谷川木材店提供 】



 左官仕事多く、冬場の施工であったため漆喰が乾かなくて困った。

 外壁は、既に脱落している部分は下地に合板など入れパネルを組み漆喰塗りにした。内壁の脱落部分は同じ土壁を塗るのが最良だが、材料の入手が困難で、費用も掛かるため珪藻土塗りとした。部分的な脱落部分は落下していた土を利用し補修した。仕上りの色が違うので、墨を部分的に塗った。

【土壁の補修 長谷川木材店提供】



 床はコンクリートを打ってあったので、その上に7cmくらいコンクリを打っている。鉄筋の網を入れ、コンクリートを打ち増しした。基礎部分はかなり北側が下がっていたので、高さを戻し旧の基礎石を積み替えた。

 古い木部の塗装はしていない。洗剤を使用してはいけないと言うことで、水拭きした。新しい部材は白木のままでは、かなり違和感があったので塗装した。

【梁の水拭き 長谷川木材店提供】



 共通事項として、古い部材は切り込みをしてはいけないので、接合部分については釘を打っての接合とした。古い部分を削ったり、切ったりしてはいけない。



 こうして改築工事は終了し、楽笑座が完成した。